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セクリターテ

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セクリタテアルーマニア語:Securitate)とは、ルーマニア社会主義共和国秘密警察。組織上は内務省の傘下にあり、正式名称は国家保安部(Departamentul Securităţii Statului)であった。

特徴

セクリタテアの特徴は、メンバーが主として国営の孤児院出身者から構成されていたことであり、一般住民との接触はかなり制限されていた。「優秀な子供」として選ばれた孤児たちは、洗脳と特殊訓練を受けてセクリタテアへと育てられた。ルーマニア社会主義共和国は、この組織の下で徹底的な監視社会となり、「街中のカフェやレストランには必ず盗聴器が仕掛けられていた」と言われている程である。

セクリタテアの主要任務としては、防諜、反体制派対策、ニコラエ・チャウシェスク大統領と側近の個人警護を担当していた。その外、ルーマニアには純粋な対外諜報機関である参謀本部情報局と対外情報部(Departamentul de Informatii Externe、略称DIE)が存在したにも拘らず、国外でも活動していた。国外でも秘密作戦(反体制派の除去など)のために、セクリタテアには「コンドル」グループが存在した。

歴史

セクリタテアは、1945年以前の代表的な秘密警察である「特高警察」「ゲーペーウー」「ゲシュタポ」のルーマニア版である。

1945年~1965年

創立者は、ソビエト連邦の協力者であったジョルジェスクである。ルーマニア社会主義共和国が立てられた1945年から、ニコラエ・チャウシェスクルーマニア共産党書記長に就任する1965年までは、セクリタテアは「反革命分子だ」「政府の敵だ」と称して民主主義勢力を大規模に弾圧した。

1960年代~1970年代、スペインで「グレナダ」という渾名(あだな)を得たワシレ・ゲオルゲがジョルジェスクの後を継ぎ、ゲオルゲは反体制派の尋問(拷問)に個人的に参加すらしていた。その後、ディンク、ヴラダ、ポープ、ポステルニク、ドラガッチャがセクリタテアの長官となった。

1965年~1989年

ニコラエ・チャウシェスクが共産党書記長に就任した1965年以後は、セクリタテアの猛威は一層強まった。

チャウシェスク政権は、ルーマニアの全土に盗聴器を設置して、民衆を恐怖に陥れた。又、孤児たちを洗脳してセクリタテアのメンバーにする一方で、全国の小学校にも授業時間にセクリタテアのメンバーを間諜として送り込み、チャウシェスク政権への不平や不満を政府に報告していた。

崩壊後

1989年12月のルーマニア革命の時にはセクリタテアのメンバーはチャウシェスク擁護に立ち、ブカレストでは救国戦線軍に立った共産党軍兵士との間に銃撃戦が発生した。

ニコラエ・チャウシェスクが射殺されてルーマニア社会主義共和国が倒され、民主国家が立てられた直後のルーマニアでは、民主化後の東ヨーロッパで最も苛烈な脱共産化(旧共産党国家の政府関係者への弾圧)が行われ、「民主主義の敵だ」として民衆によってリンチ、殺害された共産党関係者も多かった。元セクリタテア長官のディンク、ヴラダ、ポープ、セクリタテアの職員だったニク・チャウシェスク(ニコラエ・チャウシェスク大統領の次男)など、数百人の元セクリタテアのメンバーが裁判にかけられた。最後の長官であるドラガッチャは、ハンガリー第三共和国に亡命した。

また、民主政体下(1990年以後)で施行された法律により、元セクリタテアのメンバーに対して公職禁止が布かれた。元セクリタテアのメンバーは、イスラエルの特務機関で働くか、極右民族主義政党「大ルーマニア党」に避難したり、または裏の犯罪組織に入ったと考えられている。元メンバーのドゥミトレスクは、ドイツでルーマニア・ジプシー・マフィア「親衛隊」を率い、かつての同僚を引き込んでいた。また、セクリタテアに育成途中だった子供たちの多くは、他の孤児同様に『チャウシェスクの子供たち』と呼ばれるストリートチルドレンになったと言われている。

機構

  • 技術作戦総局
  • 防諜局
  • 監視局
  • 第4局
  • 第5局
  • 内部保安局
  • K局
  • 捜査局
  • 郵便検閲局

歴代長官

  • ジョルジェスク
  • ワシレ・ゲオルゲ
  • ディンク
  • ヴラダ
  • ポープ
  • ポステルニク
  • ドラガッチャ

関連項目