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彼らは、イエスがこのように語ったのは古い制度を廃止するためだと考えた。したがってイエスはこの疑いを解消させる。そして、ここでだけでなく他のところでもそうする。彼らがイエスを神の敵とみなしたのは彼が安息日を守らないからである。そこでイエスは彼らの疑いを静めるために再び弁明を述べる。その弁明の中には、確かにイエスにふさわしいものもあった。例えば、「父は働いておられる。だからわたしも働くのだ」<ref>ヨハネ 5:17</ref> と言われた時である。しかし安息日に穴に落ち込んだ羊を助け出す話のように<ref>マタイ 12:11</ref>、その中には卑近で身近な話による説明もあった。そして律法が守られるために乱されていることを指摘し、同じ効果を持つ割礼について再度言及した<ref>ヨハネ 7:23</ref>。
彼らは、イエスがこのように語ったのは古い制度を廃止するためだと考えた。したがってイエスはこの疑いを解消させる。そして、ここでだけでなく他のところでもそうする。彼らがイエスを神の敵とみなしたのは彼が安息日を守らないからである。そこでイエスは彼らの疑いを静めるために再び弁明を述べる。その弁明の中には、確かにイエスにふさわしいものもあった。例えば、「父は働いておられる。だからわたしも働くのだ」<ref>ヨハネ 5:17</ref> と言われた時である。しかし安息日に穴に落ち込んだ羊を助け出す話のように<ref>マタイ 12:11</ref>、その中には卑近で身近な話による説明もあった。そして律法が守られるために乱されていることを指摘し、同じ効果を持つ割礼について再度言及した<ref>ヨハネ 7:23</ref>。


それゆえイエスが神の敵対者という印象を消すために、しばしば謙(へりくだ)ってより身近な言葉を話すことも理解できる。
それゆえイエスが神の敵対者という印象を消すために、しばしば謙(へりくだ)ってより身近な言葉を話すことも理解できる。




このためラザロを呼ぶとき、一言だけで何千もの死人をらせたイエスは祈りも加えられた。そして、それがイエスを生んだ方よりも劣っていると思われないように、この疑いを正すためにこう付け加えられた、「わたしは、そばに立っている民衆のために、これらのことを言いました。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」<ref>ヨハネ 11:42</ref> また、イエスは自分の力で行動する者のように、すべてのことを行うのではなく彼らの弱さを徹底的に正そうともせず、また後から来る者たちに、自分には力も権威もないかのように悪い疑いを抱かせないように、すべてのことを祈りによって行うのではなく後者を前者と混ぜ、さらに後者をこれらと混ぜ合わせる。またイエスはこれを無差別に行うのではなく、ご自身の正しい知恵によって行うのである。というのはイエスは大きなわざを権威をもって行う一方で、小さなわざにおいては天を仰いでおられるからである。このように罪を赦し、秘密を明らかにし、楽園を開き、悪魔を追い払い、らい病人を清め、死を抑え、何千人もの死者を蘇らせたとき、イエスはすべて命令として行われた。しかし、これらよりもはるかに小さなこと、つまり、少数のパンから多くのパンを生じさせていたとき天を仰ぎ見て、弱さからこれをなさるのではないことを示しておられる。権威をもって大きなことをなさるお方が、小さなことをなさるのにどうして祈りが必要であろうか。しかし私が言っていたように、イエスは彼らの恥知らずさを黙らせるためにこれをなさる。それゆえ、あなたがたがへりくだったことを語るイエスの言葉を聞くときも、同じように考えなさいと私はあなたに命じる。実際、その言葉と行動の両方に原因があるのは、イエスが神から離れた存在と思われないようにするため、すべての人を教え、仕えるため、謙遜を教えるため、肉に包まれていること、ユダヤ人が一度にすべてを聞くことができないこと、自分自身について高言を発しないようにと教えるためである。このためにイエスはご自身についてへりくだったことを何度も語り、大きなことは他の人に語らせているのである。実際、イエスはユダヤ人たちと論じながら、「アブラハムの生まれる前から、わたしはいる」<ref>ヨハネ 8:58</ref> と言われた。しかし弟子たちはそうは言わなかった。「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」<ref>ヨハネ 1:1</ref>
このためラザロを呼ぶとき、一言だけで何千もの死人を起き上がらせたイエスは祈りも加えられた。そして、それがイエスを生んだ方よりも劣っていると思われないように、この疑いを正すためにこう付け加えられた、「わたしは、そばに立っている民衆のために、これらのことを言いました。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」<ref>ヨハネ 11:42</ref> また、イエスは自分の力で行動する者のように、すべてのことを行うのではなく彼らの弱さを徹底的に正そうともせず、また後から来る者たちに、自分には力も権威もないかのように悪い疑いを抱かせないように、すべてのことを祈りによって行うのではなく後者を前者と混ぜ、さらに後者をこれらと混ぜ合わせる。またイエスはこれを無差別に行うのではなく、ご自身の正しい知恵によって行うのである。というのはイエスは大きなわざを権威をもって行う一方で、小さなわざにおいては天を仰いでおられるからである。このように罪を赦し、秘密を明らかにし、楽園を開き、悪魔を追い払い、らい病人を清め、死を抑え、何千人もの死者を蘇らせたとき、イエスはすべて命令として行われた。しかし、これらよりもはるかに小さなこと、つまり、少数のパンから多くのパンを生じさせていたとき天を仰ぎ見て、弱さからこれをなさるのではないことを示しておられる。権威をもって大きなことをなさるお方が、小さなことをなさるのにどうして祈りが必要であろうか。しかし私が言っていたように、イエスは彼らの恥知らずさを黙らせるためにこれをなさる。それゆえ、あなたがたがへりくだったことを語るイエスの言葉を聞くときも、同じように考えなさいと私はあなたに命じる。実際、その言葉と行動の両方に原因があるのは、イエスが神から離れた存在と思われないようにするため、すべての人を教え、仕えるため、謙遜を教えるため、肉に包まれていること、ユダヤ人が一度にすべてを聞くことができないこと、自分自身について高言を発しないようにと教えるためである。このためにイエスはご自身についてへりくだったことを何度も語り、大きなことは他の人に語らせているのである。実際、イエスはユダヤ人たちと論じながら、「アブラハムの生まれる前から、わたしはいる」<ref>ヨハネ 8:58</ref> と言われた。しかし弟子たちはそうは言わなかった。「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」<ref>ヨハネ 1:1</ref>





2024年6月20日 (木) 18:57時点における版

Wikisource:宗教

説教16

1

マタイ5章17節


「わたしが律法や預言者を廃止するために来たと思ってはならない。」


なぜ、誰がこのことを疑ったのか。あるいは、誰がイエスを非難し、イエスがこの非難に対して弁明するようにさせたのか。これまでの出来事から、確かにそのような疑惑は生じなかった。というのは人々に柔和で、優しく、慈悲深く、心が清く、正義に努めるように命じることは、そのような意図を示すものではなく、むしろ全く逆のことであったからである。


ではなぜイエスはこのようなことを言うことができたのであろうか。それは意味もなく、またむなしく言ったのではなくイエスが昔の戒めよりも偉大な戒めを定めようとしていたので、「昔の人々には、『殺すなかれ』と言われていたが、わたしはあなたがたに言う。怒りを発してもいけない。」 、ある種の神聖で天的な会話への道を示し、その奇妙さが聞き手の魂を動揺させたり、イエスが言ったことに反抗するような気持ちにさせたりしないようにイエスは前もって彼らを正すためにこの手段を使われたのである。


というのは彼らは律法を守らなかったにもかかわらず、律法に対して非常に良心的な配慮を持っていたからである。そして彼らは日々、律法を行為によって無効にしながらも律法の文言については動かすこともなく、誰もそれ以上付け加えないようにしていた。むしろ彼らは支配者たちが律法に付け加えることを我慢していたが、それは良いことではなく、むしろ悪いことだった。彼らは自分たちの付け加えによって私たちの両親にふさわしい名誉を無視し、また他の多くの人々も自分たちに課せられた事柄から、こうした不当な付け加えによって自分たちを解放しようとしていたのである。


したがってキリストはまず第一に聖職者ではなかったし、次に彼が導入しようとしていたものは、徳を減らすのではなく徳を高める一種の付加物であったこともあり、彼はこれらの両方の状況が彼らを悩ませることを事前に知っていたので、彼らの心に新たな素晴らしい法則を書き込む前に、そこに潜んでいるはずのものを追い払ったのである。では、そこに潜んでいて障害となっていたものは何だったのであろうか。


2

彼らは、イエスがこのように語ったのは古い制度を廃止するためだと考えた。したがってイエスはこの疑いを解消させる。そして、ここでだけでなく他のところでもそうする。彼らがイエスを神の敵とみなしたのは彼が安息日を守らないからである。そこでイエスは彼らの疑いを静めるために再び弁明を述べる。その弁明の中には、確かにイエスにふさわしいものもあった。例えば、「父は働いておられる。だからわたしも働くのだ」[1] と言われた時である。しかし安息日に穴に落ち込んだ羊を助け出す話のように[2]、その中には卑近で身近な話による説明もあった。そして律法が守られるために乱されていることを指摘し、同じ効果を持つ割礼について再度言及した[3]

それゆえイエスが神の敵対者という印象を消すために、しばしば謙(へりくだ)って、より身近な言葉を話すことも理解できる。


このためラザロを呼ぶとき、一言だけで何千もの死人を起き上がらせたイエスは祈りも加えられた。そして、それがイエスを生んだ方よりも劣っていると思われないように、この疑いを正すためにこう付け加えられた、「わたしは、そばに立っている民衆のために、これらのことを言いました。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」[4] また、イエスは自分の力で行動する者のように、すべてのことを行うのではなく彼らの弱さを徹底的に正そうともせず、また後から来る者たちに、自分には力も権威もないかのように悪い疑いを抱かせないように、すべてのことを祈りによって行うのではなく後者を前者と混ぜ、さらに後者をこれらと混ぜ合わせる。またイエスはこれを無差別に行うのではなく、ご自身の正しい知恵によって行うのである。というのはイエスは大きなわざを権威をもって行う一方で、小さなわざにおいては天を仰いでおられるからである。このように罪を赦し、秘密を明らかにし、楽園を開き、悪魔を追い払い、らい病人を清め、死を抑え、何千人もの死者を蘇らせたとき、イエスはすべて命令として行われた。しかし、これらよりもはるかに小さなこと、つまり、少数のパンから多くのパンを生じさせていたとき天を仰ぎ見て、弱さからこれをなさるのではないことを示しておられる。権威をもって大きなことをなさるお方が、小さなことをなさるのにどうして祈りが必要であろうか。しかし私が言っていたように、イエスは彼らの恥知らずさを黙らせるためにこれをなさる。それゆえ、あなたがたがへりくだったことを語るイエスの言葉を聞くときも、同じように考えなさいと私はあなたに命じる。実際、その言葉と行動の両方に原因があるのは、イエスが神から離れた存在と思われないようにするため、すべての人を教え、仕えるため、謙遜を教えるため、肉に包まれていること、ユダヤ人が一度にすべてを聞くことができないこと、自分自身について高言を発しないようにと教えるためである。このためにイエスはご自身についてへりくだったことを何度も語り、大きなことは他の人に語らせているのである。実際、イエスはユダヤ人たちと論じながら、「アブラハムの生まれる前から、わたしはいる」[5] と言われた。しかし弟子たちはそうは言わなかった。「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」[6]


またイエス自身が天と地と海、そして見えるもの見えないものすべてを造ったことは、イエス自身の言葉で、明確にはどこにも述べられていない。しかし弟子ははっきりとそれを語り、何も隠さず、このことを一度、二度、いや何度も断言している。「すべてのものは彼によって造られた」また「彼によらずに造られたものは一つもなかった」と書いている。そして「彼は世界におり、世界は彼によって造られた」のである。[7]


他の人々がイエスについて、イエスがご自身について語ったことよりも大きなことを語ったとしても、なぜ驚くのであろうか。と言うのは多くの場合、イエスは行為によって示したことを言葉によって公に語らなかったからである。このようにイエスはご自身が人類を創造されたことを、あの盲人によってさえ明らかにされたのである。しかしイエスが初めに私たちの創造について語っていたとき、イエスは「私が創造した」とは言わず、「創造された方が、彼らを男と女に創造された」[8]と言われたのである。またイエスは世界とその中にあるすべてのものを創造されたことを、魚、ワイン、パン、海の凪、十字架上で避けた太陽の光、その他多くのものによって示された。しかし言葉では、イエスはどこにもこれをはっきりとは語らなかった。弟子たちは、ヨハネ、パウロ、ペテロが絶えずそれを宣言しているにもかかわらずである。


というのは、夜も昼もイエスの話を聞き、イエスが奇跡を行うのを見ていた人たち、ひそかに多くのことを説明して死者をよみがえらせるほどの力を与えた人たち、イエスのためにすべてを捨てるほどに完全な者とした人たちでさえ、彼らでさえ、あれほど偉大な徳と自己否定の後で、聖霊の助けを受ける前に、そのすべてに耐える力がなかったのなら、ユダヤ人は理解力がなく、そのような卓越性からは程遠く、イエスが何かをしたり言ったりするときに偶然そこにいただけであるのに、イエスが最初から最後まであれほど偉大な謙遜を実践していなかったなら、どうして彼らが、イエスが万物の神から離れた存在であると確信できなかったであろうか。


この理由から、イエスが安息日を廃止しようとしていたときでさえ、そのような法律を制定したのは、明確な目的があったからではなく多くの様々な弁明をまとめたからであることがわかる。さてイエスが一つの戒めを廃止しようとしていたとき、聞く者を驚かせないように言葉をあれほど控えめにしたのなら、ましてや、すでに完全な律法であった律法に別の律法の完全な法典を加えるときには、聞いている人々を驚かせないように多くの慎重さと注意を要したのである。


同じ理由でイエスがご自身の神性について、あちこちではっきりと教えているのも見当たらない。律法に付け加えたことが彼らを大いに困惑させたのであれば、イエスがご自身を神であると宣言したことは、なおさら困惑させるであろう。


3

そのため主は、本来の威厳をはるかに下回る多くのことを語られ、ここで主が律法に付け加えようとなさるときには、その前に訂正のために多くのことを使われた。主は、「私は律法を廃止しない」と一度だけ言われたのではなく、それをもう一度繰り返し、さらにもう一つの、さらに大きなことを付け加えられた。「私が滅ぼすために来たと思ってはならない」という言葉に、「私は滅ぼすために来たのではなく、成就するために来たのだ」と付け加えられたのである。


これはユダヤ人の頑固さを阻(はば)むだけでなく、古い契約は悪魔からのものだと言う異端者たち[9]の口も封じる。なぜなら、もしキリストが悪魔の暴政を滅ぼすために来られたのなら、どうしてこの契約は彼によって滅ぼされないばかりか、成就されるのであろうか。と言うのは、キリストは「私はそれを滅ぼさない」と言われただけでなく、それだけで十分であったにもかかわらず、「私はそれを成就する」と言われたからである。これは自分自身に反対するどころか、それを確立する者の言葉である。


では、どうしてイエスはそれを破壊しなかったのかと問う人もいるかもしれない。むしろ、律法や預言者をどのように成就したのか。預言者については、イエスは、ご自身について語られたすべてのことを行動で実証することによって成就した。それゆえ、福音書記者も、それぞれの場合に「預言者によって語られたことが成就するため」と言っている。イエスが生まれたとき[10]、子供たちがイエスにあのすばらしい賛美歌を歌ったとき、イエスがロバに乗ったとき[11]、そしてその他多くの場合にイエスは同じように成就された。もしイエスが来られなかったなら、これらすべてのことは成就しなかったに違いない。



  1. ヨハネ 5:17
  2. マタイ 12:11
  3. ヨハネ 7:23
  4. ヨハネ 11:42
  5. ヨハネ 8:58
  6. ヨハネ 1:1
  7. ヨハネ 1:3,10
  8. マタイ 19:4
  9. グノーシス主義者とマニ教徒
  10. マタイ 1:22,23
  11. マタイ 21:5-16