コンテンツにスキップ

「李鵬」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
 
(19人の利用者による、間の28版が非表示)
1行目: 1行目:
{{政治家
{{政治家
|人名 =李 鵬
| 人名 = 李 鵬
|各国語表記 = 李鹏<br/>{{en|Li Peng}}
| 各国語表記 = {{zh| }}<br>{{zh|李 鵬}}<br/>{{en|Li Peng}}
|画像 = Li Peng.png
| 画像 = Li Peng.png
|画像説明 = [[ロシア|ロシア連邦]][[クレムリン]]にて。(2000年9月13日)
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = [[ロシア|ロシア連邦]][[クレムリン]]にて(2000年9月13日
|国略称 = {{PRC}}
| 国略称 = {{PRC}}
|生年月日 = {{生年月日|1928|10|20}}
| 生年月日 = {{生年月日|1928|10|20}}
|出生地 = {{Flagicon|ROC}} [[中華民国の歴史|中華民国]] [[上海市]]
| 出生地 = {{CHN1928-1949}} [[上海市]]
|没年月日 = {{没年月日と年齢|1928|10|20|2019|7|22}}
| 没年月日 = {{没年月日と年齢|1928|10|20|2019|7|22}}
|死没地 = {{PRC}} [[北京市]]
| 死没地 = {{PRC}} [[北京市]]
| 出身校 = 延安自然化学院<br/>[[張家口]]工業専門学校<br/>北京工業学院<br/>モスクワ動力学院
|出身校 =
|前職 =
| 前職 =
|現職 =
| 現職 =
| 所属政党 = {{CPC}}
|所属政党 =[[File:Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg|25px]] [[中国共産党]]
|称号・勲章 =
| 称号・勲章 =
|親族(政治家) = [[周恩来]](養父)
| 親族(政治家) = [[周恩来]](養父)
|配偶者 = [[朱琳 (政治家)|朱琳]]
| 配偶者 = [[朱琳 (政治家)|朱琳]]
|子女 = 李小鹏<br>李小琳<br>李小勇
| 子女 = 3人
|サイン =
| サイン =
|ウェブサイト =
| ウェブサイト =
|サイトタイトル =
| サイトタイトル =
| 国旗 = PRC

| 職名 = [[全国人民代表大会]]<br/>第7代[[全国人民代表大会常務委員会#常務委員会委員長|常務委員長]]
|国旗 = PRC
| 内閣 =
|職名 = [[全国人民代表大会]]<br/>第7代[[全国人民代表大会常務委員会#歴代常務委員長|常務委員長]]
| 就任日 = [[1998年]][[3月16日]]
|内閣 =
|任日 = [[1998年]][[3月16日]]
| 退任日 = [[2003年]][[3月15日]]
| 元首職 = 最高指導者
|退任日 = [[2003年]][[3月15日]]
|元首 = [[中華人共和国主席|国家主席]]
| 元首 = [[江沢民]]
| 国旗2 =
|元首 = [[江沢民]]
| 職名2 = {{PRC}}<br/>第4代[[国務院総理]]
|国旗2 =
| 内閣2 = 李鵬内閣
|職名2 = {{PRC}}<br/>第4代[[国務院総理]]
| 就任日2 = [[1987年]][[11月24日]] - [[1988年]][[4月9日]](国務院総理代行)<br>[[1988年]][[4月9日]]
|内閣2 = 李鵬内閣
|任日2 = [[1987年]][[1124日]] - [[1988年]][[4月9日]](国務院総理代行)<br>[[1988年]][[4月9日]]
| 退任日2 = [[1998年]][[317日]]
| 元首職2 = 最高指導者
|退任日2 = [[1998年]][[3月17日]]
|元首2 = 最高指導者
| 元首2 = [[鄧小平]]<br>[[江沢民]]
| 国旗3 =
|元首2 = [[鄧小平]]<br>[[江沢民]]
| 職名3 = {{PRC}}<br/>第6期[[国務院副総理#第6期国務院|国務院副総理]]
|国旗3 =
| 内閣3 = [[趙紫陽]]内閣
|職名3 = {{PRC}}<br/>[[中華人民共和国国務院|国務院副総理]]
| 就任日3 = [[1983年]][[6月20日]]
|内閣3 =[[趙紫陽]]内閣
|任日3 = [[1983年]][[620日]]
| 退任日3 = [[1988年]][[49日]]
| 元首職3 = 最高指導者
|退任日3 = [[1988年]][[4月9日]]
|元首3 = 最高指導者
| 元首3 = [[鄧小平]]
| 国旗4 =
|元首3 = [[鄧小平]]
| 職名4 = {{PRC}}<br/>初代[[中華人民共和国教育部|国家教育委員会]]主任
|国旗4 =
| 内閣4 = 趙紫陽内閣
|職名4 = {{PRC}}<br/>初代[[中華人民共和国教育部|国家教育委員会]]主任
| 就任日4 = [[1985年]][[6月18日]]
|内閣4 = 趙紫陽内閣
|任日4 = [[1985年]][[618日]]
| 退任日4 = [[1988年]][[49日]]
| 元首職4 = 最高指導者
|退任日4 = [[1988年]][[4月9日]]
|元首4 = 最高指導者
| 元首4 = [[鄧小平]]
| 国旗5 =
|元首4 = [[鄧小平]]
| 職名5 = {{PRC}}<br/>第2代電力工業部長
|国旗5 =
| 内閣5 = 趙紫陽内閣
|職名5 = {{PRC}}<br/>第2代電力工業部長
| 就任日5 = [[1981年]][[3月]]
|内閣5 = 趙紫陽内閣
|任日5 = [[1981年]][[3月]]
| 退任日5 = [[1982年]][[3月]]
| 元首職5 = 最高指導者
|退任日5 = [[1982年]][[3月]]
|元首5 = 最高指導者
| 元首5 = [[鄧小平]]
|元首5 = [[鄧小平]]
}}
}}
{{中華圏の人物
{{中華圏の人物
66行目: 66行目:
|出身地=
|出身地=
|職業=
|職業=
|繁体字=李鵬
|繁体字=李
|簡体字=李鹏
|簡体字=李
|ピン音=Lĭ Péng
|ピン音=Lĭ Péng
|和名=り ほう
|和名=り ほう
|発音=リー・ポン
|発音=リー・ポン
}}
{{external media
|align=center
|image1=[[:en:File:Tianasquare.jpg|男性と戦車の接近場面を拡大した画像(ジェフ・ワイドナー撮影)]]
}}
}}
{{中華人民共和国}}
{{中華人民共和国}}
'''李 鵬'''(り ほう、原名:'''李 遠芃'''、簡体字:李 鹏、繁体字:李 鵬、英語:{{en|'''Li Peng'''}}<small>(リー・ポン)</small>、[[1928年]][[10月20日]] - [[2019年]][[7月22日]]<ref>{{Cite web|title=李鹏同志逝世-新华网|url=http://www.xinhuanet.com/politics/2019-07/23/c_1124789462.htm|website=www.xinhuanet.com|accessdate=2019-07-23|publisher=|date=2019-07-23}}</ref>)は、[[中華人民共和国]]の[[政治家]]。第4代[[国務院総理]]([[首相]])、[[全国人民代表大会常務委員会]]委員長国会に相当)、[[中国共産党中央政治局常務委員会|中国共産党中央政治局常務委員]]などを務めた。
'''李 鵬'''(り ほう、原名:'''李 遠芃'''<ref name=":0">{{Cite web |title=李鹏同志生平_滚动新闻_中国政府网 |url=http://www.gov.cn/xinwen/2019-07/29/content_5416480.htm |website=www.gov.cn |access-date=2022-07-17}}</ref>、簡体字:{{zh|李 鹏}}、繁体字:{{zh|李 鵬}}、英語:{{en|'''Li Peng'''}}リー・ポン、[[1928年]][[10月20日]] - [[2019年]][[7月22日]]{{R|xinhuanet_20190723}})は、[[中華人民共和国]]の[[政治家]]。第4代[[国務院総理]]、第7代[[全国人民代表大会常務委員会#常務委員会委員長|全人民代表大常務委員]]、[[中国共産党中央政治局常務委員会|党中央政治局常務委員]]などを務めた。


==経歴==
==経歴==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
本貫四川省成都<ref name=":0" />。父は[[宜賓市]][[:zh:慶符縣|慶府縣]](今の[[高県]])生まれ。<ref>{{Cite web |url=http://www.jj831.com/2021/0623/348933.shtml |title=宜宾党史重大事件纪实(55)李鹏同志两次视察宜宾 |access-date=2021-06-23 |publisher=宜宾日报融媒体}}</ref>
1928年10月20日に[[中華民国]]の[[上海市]]に誕生する。李鵬の父の[[:zh:李硕勋|李碩勛]]は[[中国共産党]]初期の指導者であったが、[[中国国民党|国民党]]に処刑されたと言われる。初代国務院総理の[[周恩来]]・[[鄧穎超]]夫妻は子供に恵まれなかったため孤児を引き取って養っており、李鵬もその1人であった。李鵬は建国の元老である養父母を後ろ盾としたため、[[太子党]]の先駆けともされる<ref>{{Cite news |title=李鵬元首相死去 「太子党」はしり、世襲の根深さ象徴|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2019-07-23|author=|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47704190T20C19A7FF8000/|accessdate=2019-10-11}}</ref>。

1928年10月20日に[[上海市]]に誕生する。李鵬の父の[[:zh:李硕勋|李碩勛]]は[[中国共産党]]初期の指導者であったが、[[中国国民党|国民党]]に処刑されたと言われる。初代国務院総理の[[周恩来]]・[[鄧穎超]]夫妻は子供に恵まれなかったため孤児を引き取って養っており、李鵬もその1人であった。李鵬は建国の元老である養父母を後ろ盾としたため、[[太子党]]の先駆けともされる<ref>{{Cite news |title=李鵬元首相死去 「太子党」はしり、世襲の根深さ象徴|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2019-07-23|author=|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47704190T20C19A7FF8000/|accessdate=2019-10-11}}</ref>。


=== テクノクラート ===
=== テクノクラート ===
[[1945年]]11月に[[中国共産党]]に入党する。[[1948年]]から[[1955年]]まで[[ソビエト連邦|ソ連]]に留学し、[[モスクワ]]科学動力学院で水力エンジニアリングを学ぶ。帰国後エンジニアとして東北電管局所属の豊満水利発電廠や阜新発電廠で発電作業に従事した。[[1966年]]からは華北電管局所属の北京供電局に異動し、[[1979年]]に電力部に移った。
[[1945年]]11月に[[中国共産党]]に入党する。[[1948年]]から[[1955年]]まで[[ソビエト連邦|ソ連]]に留学し、[[モスクワ]]科学動力学院で水力エンジニアリングを学ぶ。帰国後エンジニアとして東北電管局所属の豊満水利発電廠や阜新発電廠で発電作業に従事した。[[1966年]]からは華北電管局所属の北京供電局に異動し、[[1979年]]に電力部に移った。


1979年から1983年にかけて電力工業部副部長([[次官]])、電力工業部長(大臣)、水利電力部副部長を歴任して[[テクノクラート]]として活動した。[[1982年]]9月の第12回党大会で[[中国共産党中央委員会|中央委員]]に選出された。
1979年から1983年にかけて電力工業部副部長、電力工業部長、水利電力部副部長を歴任して[[テクノクラート]]として活動した。[[1982年]]9月の第12回党大会で[[中国共産党中央委員会|中央委員]]に選出された。


=== 国務院総理へ ===
=== 国務院総理へ ===
[[1983年]]6月に国務院副総理となる。[[1985年]]の第12期党中央委員会第5回全体会議(第12期5中全会)で[[中国共産党中央政治局|政治局委員]]、[[中国共産党中央書記処|中央書記処]]書記に選出する。同年6月[[中華人民共和国教育部|国家教育委員会]]主任(大臣級)に就任した。
[[1983年]]6月に国務院副総理となる。[[1985年]]の第12期党中央委員会第5回全体会議(第12期5中全会)で[[中国共産党中央政治局|政治局委員]]、[[中国共産党中央書記処|中央書記処]]書記に選出する。同年6月[[中華人民共和国教育部|国家教育委員会]]主任(大臣級)に就任した。


[[1987年]]11月の[[中国共産党第十三期中央委員会第一回全体会議|第13期1中全会]]で[[中国共産党中央委員会総書記|党総書記]]に就任した[[趙紫陽]]の後任として国務院総理に指名され、政治局常務委員に選出される。[[1988年]][[4月9日]]に正式に国務院総理に就任した。
[[1987年]]11月の[[中国共産党第十三期中央委員会第一回全体会議|第13期1中全会]]で[[中国共産党中央委員会総書記|党総書記]]に就任した[[趙紫陽]]の後任として国務院総理に指名され、政治局常務委員に選出される。[[1988年]][[4月9日]]に正式に国務院総理に就任した。


経済政策は引き続き趙紫陽が主管していたが、[[鄧小平]]が推進した価格改革によってハイパーインフレが発生し、趙紫陽は経済政策の転換を迫られた。李鵬は趙紫陽に替わって経済政策の実権を握り、1988年9月末の第13期3中全会で党指導部は経済改革をトーン・ダウンし、「調整・引き締め」を行うことを決定した<ref>天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』<中国の歴史11>(講談社、2004年)、282ページ。</ref>。ただし、李鵬も総理就任の活動報告で、価格改革の必要性を訴えていた。
経済政策は引き続き[[趙紫陽]]が主管していたが、[[鄧小平]]が推進した価格改革によってハイパーインフレが発生し、趙紫陽は経済政策の転換を迫られた。李鵬は趙紫陽に替わって経済政策の実権を握り、1988年9月末の第13期3中全会で党指導部は経済改革をトーン・ダウンし、「調整・引き締め」を行うことを決定した{{sfn|天児慧|2004|p=282}}。ただし、李鵬も総理就任の活動報告で、価格改革の必要性を訴えていた。


国内政策では一貫して強硬策を主張し<ref>[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]</ref>、[[1989年]]5月20日に[[中国中央テレビ]]で李鵬は[[戒厳令]]を公布し<ref name=bbc201907/>、その後[[六四天安門事件|第二次天安門事件]]が起きた。趙紫陽が北朝鮮の訪問中に留守を託された李鵬ら保守派は鄧小平に事態を誇張して報告し、鄧小平は民主化学生運動を動乱と認定する。その意向は同年4月26日付『人民日報』社説である「[[旗幟鮮明に動乱に反対せよ]]」に反映されていた。この社説に対する見解を巡って趙紫陽と決裂し、学生との対話でも小馬鹿にした態度に終始した。李鵬は「'''北京屠夫'''」(北京の虐殺者)・「'''六四屠夫'''」(天安門事件の虐殺者)と非難された<ref name=bbc201907>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/japanese/49083679|title=中国の李鵬元首相、90歳で死去 「北京の虐殺者」と呼ばれ|work=|agency=[[BBC]]|date=2019-07-24|accessdate=2019-08-06}}</ref>。
{{ external media
| align=right
| image1 = [[:en:File:Tianasquare.jpg|男性と戦車の接近場面を拡大した画像(ジェフ・ワイドナー撮影)]]
}}
国内政策では一貫して強硬策を主張し<ref>[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]</ref>、[[1989年]]5月20日に[[中国中央テレビ]]で李鵬は[[戒厳令]]を公布し<ref name=bbc201907/>、その後[[第二次天安門事件]]が起きた。趙紫陽が北朝鮮の訪問中に留守を託された李鵬ら保守派は鄧小平に事態を誇張して報告し、鄧小平は民主化学生運動を動乱と認定する。その意向は同年4月26日付『人民日報』社説である「[[旗幟鮮明に動乱に反対せよ]]」に反映されていた。この社説に対する見解を巡って趙紫陽と決裂し、学生との対話でも小ばかにした態度に終始した。李鵬は「'''北京屠夫'''」(北京の虐殺者)「'''六四屠夫'''」(天安門事件の虐殺者)と非難された<ref name=bbc201907>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/japanese/49083679|title=中国の李鵬元首相、90歳で死去 「北京の虐殺者」と呼ばれ|work=|agency=[[BBC]]|date=2019-07-24|accessdate=2019-08-06}}</ref>。


天安門事件によって趙紫陽総書記と[[胡啓立]]政治局常務委員の失脚が確定的となった後、鄧小平たち[[八大元老]]は総書記の人選に入ったが、李鵬が候補として挙げられた形跡はく、上海市党委書記で学生デモや『世界経済導報』停刊の対応を評価された[[江沢民]](当時政治局委員)の後塵を拝することになった。学生運動の開始後ずっと前面に出ていたため、国内外に対する印象の悪さも考慮されたと思われる。天安門事件以降経済の自由化にも消極的な李鵬ら保守派の影響力が強まり、改革開放路線は停滞すると、政局安定のために保守派と妥協していた鄧小平もついに業を煮やし、[[1992年]]の旧正月に[[広東省]][[深圳市]]などの[[経済特区]]を突如訪れ、改革開放路線の推進・加速を訴える談話を発表して回った([[南巡講話]])。これ以降改革派が勢いづき、李鵬ら保守派は影響力を失っていった。
天安門事件によって[[趙紫陽]]総書記と[[胡啓立]]政治局常務委員の失脚が確定的となった後、鄧小平たち[[八大元老]]は総書記の人選に入ったが、李鵬が候補として挙げられた形跡はく、上海市党委員会書記で学生デモや『世界経済導報』停刊の対応を評価された[[江沢民]](当時政治局委員)の後塵を拝することになった。学生運動の開始後ずっと前面に出ていたため、国内外に対する印象の悪さも考慮されたと思われる。天安門事件以降経済の自由化にも消極的な李鵬ら保守派の影響力が強まり、改革開放路線は停滞すると、政局安定のために保守派と妥協していた鄧小平もついに業を煮やし、[[1992年]]の旧正月に[[広東省]][[深圳市]]などの[[経済特区]]を突如訪れ、改革開放路線の推進・加速を訴える談話を発表して回った([[南巡講話]])。これ以降改革派が勢いづき、李鵬ら保守派は影響力を失っていった。


政局及び政策の転換により[[1993年]]の任期をもって総理を退任し、経済通の[[朱鎔基]]が後継者となるという見解が大勢を占めていたが、これに反して続投が決まった。総理候補として挙がったのが李鵬だけだったため、事実上の信任投票となったが、反対票は[[曽慶紅]]([[2003年]]に[[中華人民共和国副主席|国家副主席]]に就任した。)と同率の12.5パーセント(反対210票)に達した。
政局及び政策の転換により[[1993年]]の任期をもって国務院総理を退任し、経済通の[[朱鎔基]]が後継者となるという見解が大勢を占めていたが、これに反して続投が決まった。総理候補として挙がったのが李鵬だけだった事実上の信任投票となったが、反対票は[[曽慶紅]]([[2003年]]に[[中華人民共和国副主席|国家副主席]]に就任した。)と同率の12.5パーセント(反対210票)に達した。


[[1994年]]に国内の大反対を押し切って[[三峡ダム]]の着工を強行した。家族に電力会社の関係者が多く、批判を集めた。「汚職の温床」と化した本工事は総工費2000億元のうち34億元が[[賄賂]][[汚職]]に消えたと言われ<ref>[https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/07/---5_1.php 中国「三峡ダム」危機--最悪の場合、上海の都市機能が麻痺する | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト] </ref>、中でも李鵬はダム建設に使われる資材や設備の購入を通じて外国企業から巨額の賄賂を受けたとされる<ref>[https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74234?page=7 恐怖の負の遺産・三峡ダムは最終的に爆破で取り壊さざる得ないのか?(北村 豊) | 現代ビジネス | 講談社(7/9)] </ref>。更に三峡ダムを管理・運営する{{仮リンク|中国長江三峡集団|zh|中国长江三峡集团}}傘下にある{{仮リンク|長江電力|zh|長江電力}}が[[香港証券取引所]]に上場した際には、息子の[[李小鵬 (政治家)|李小鵬]]や娘の{{仮リンク|李小琳|zh|李小琳}}の会社や妻の{{仮リンク|朱琳 (政治家)|label=朱琳|zh|朱琳 (政治人物)}}が経営する会社も同グループの株式を大量に購入し、巨額の[[利益]]を手にしたとされる<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20140409_250247.html?DETAIL 李鵬・元首相 三峡ダムに絡む家族ぐるみの巨額不正に捜査か|NEWSポストセブン] </ref>。
[[1994年]]に国内の大反対を押し切って[[三峡ダム]]の着工を強行した。家族に電力会社の関係者が多く、批判を集めた。「汚職の温床」と化した本工事は総工費2000億元のうち34億元が[[賄賂]][[汚職]]に消えたと言われ<ref>[https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/07/---5_1.php 中国「三峡ダム」危機--最悪の場合、上海の都市機能が麻痺する | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト]</ref>、中でも李鵬はダム建設に使われる資材や設備の購入を通じて外国企業から巨額の賄賂を受けたとされる<ref>[https://gendai.media/articles/-/74234?page=7 恐怖の負の遺産・三峡ダムは最終的に爆破で取り壊さざる得ないのか?(北村 豊) | 現代ビジネス | 講談社(7/9)]</ref>。更に三峡ダムを管理・運営する{{仮リンク|中国長江三峡集団|zh|中国长江三峡集团}}傘下にある{{仮リンク|長江電力|zh|長江電力}}が[[香港証券取引所]]に上場した際には、息子の[[李小鵬 (政治家)|李小鵬]]や娘の{{仮リンク|李小琳|zh|李小琳}}の会社や妻の[[朱琳 (政治家)|朱琳]]が経営する会社も同グループの株式を大量に購入し、巨額の[[利益]]を手にしたとされる<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20140409_250247.html?DETAIL 李鵬・元首相 三峡ダムに絡む家族ぐるみの巨額不正に捜査か|NEWSポストセブン]</ref>。


===日本について===
[[1996年]]には[[日本]]について、オーストラリアの[[ポール・キーティング]][[オーストラリアの首相|オーストラリア首相]]が訪中した時に、「日本は40年後には消えるかもしれない<ref>参議院議員の笠原潤一は「米国人の方はどちらかというと日本人よりも中国人の方に親近感を感じているわけです、長い歴史の上からいっても。中国人社会がいかにアメリカの中に溶け込んでいるかというのは日本人社会以上ですから。そういう点からいえば、時々は米中はぎすぎすしますけれども、お互いの話というのは、コミュニケーションというのは非常にいいわけです、これはもう第二次世界大戦の例を見てもわかるように。ですから、その点では我々はそういう点をもう少し認識しないと、日米というよりも中米の方が本当を言えばタイトなんですよ、いろんなことからいって非常に関係が深いわけですから。そういう点で、その点もしっかり把握しておかないと日米という問題は将来大変なことになるだろう」と米中日の関係を話したうえで、次のように報告している。「この前、ちょうどAPECを控えて、我が自民党で御承知のようにAPECの問題でアメリカとオーストラリアに行ってもらったんです。そのときに、オーストラリアのキーティング首相がこう言ったんです。中国の李鵬さんと会ったらどう言ったかといいますと、日本とのいろんな話をしたら、いや日本という国は四十年後にはなくなってしまうかもわからぬと、そう言ったというんです。これはうそじゃありません、これはほかの先生みんな行って言っているんですから。それくらい軽視されているわけです、ある意味では。」{{cite web|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=113414308X00219951108|title=参議院会議録情報 第134回国会 参議院 国際問題に関する調査会 第2号 平成7年11月8日|last=参議院|date=1995-11-08|language=日本語|accessdate=2020年7月7日|publisher=}}</ref>」あるいは「30年もしたら日本は大体つぶれるだろう<ref>{{cite web|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=114004278X00419970509|title=衆議院会議録情報 第140回国会 衆議院 行政改革に関する特別委員会 第4号 平成9年5月9日|last=衆議院|date=1997-05-09|language=日本語|accessdate=2020年7月7日|publisher=}}</ref>」といった内容の発言をしたとされている。
[[1996年]]には[[日本]]について、オーストラリアの[[ポール・キーティング]][[オーストラリアの首相|首相]]が中国を訪問した時に、「日本は40年後には消えるかもしれない。」あるいは「30年もしたら日本は大体潰れるだろう。」といった内容の発言をしたとされている。


これについて[[笠原潤一]]参議院議員は「アメリカ人の方はどちらかというと日本人よりも中国人の方に親近感を感じているわけです、長い歴史の上から言っても。中国人社会がいかにアメリカの中に溶け込んでいるかというのは日本人社会以上ですから。そういう点から言えば、時々は米中はギスギスしますけれども、お互いの話というのは、コミュニケーションというのは非常にいいわけです、これはもう第二次世界大戦の例を見ても分かるように。ですから、その点では我々はそういう点をもう少し認識しないと、日米というよりも中米の方が本当を言えばタイトなんですよ、いろんなことから言って非常に関係が深い訳ですから。そういう点で、その点もしっかり把握しておかないと日米という問題は将来大変なことになるだろう。」とアメリカ・中国・日本の関係を話した上で、次のように報告している。
[[1997年]]に[[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ皇太子]]と江沢民国家主席や[[トニー・ブレア]][[イギリスの首相|首相]]らとともに[[香港返還]]の式典に出席した<ref>{{Cite web|date=2019年8月22日|url=https://www.dailymail.co.uk/news/article-7382617/Beijing-uses-blockbuster-recreate-handover-ceremony-Hong-Kong-1997.html|title=Beijing reminds the world Hong Kong is a part of China by recreating the city's 1997 handover ceremony in a Hollywood-style blockbuster|publisher=[[デイリー・メール]]|language=英語|accessdate=2019年8月27日}}</ref>。
{{quotation|この前、ちょうどAPECを控えて、我が自民党で御承知のようにAPECの問題でアメリカとオーストラリアに行ってもらったんです。その時にオーストラリアのキーティング首相がこう言ったんです。中国の李鵬さんと会ったらどう言ったかと言いますと、日本とのいろんな話をしたら、いや日本という国は40年後には無くなってしまうかも分からぬと、そう言ったというんです。これは嘘じゃありません、これは他の先生みんな行って言っているんですから。それくらい軽視されている訳です、ある意味では。|参議院会議録情報 第134回国会 参議院 国際問題に関する調査会 第2号 平成7年11月8日より}}


=== 国務院総理退任後 ===
=== 国務院総理退任後 ===
[[1998年]]3月に朱鎔基に総理の座を譲り、全人代常務委員長に就任した。[[2002年]]4月に全人代常務委員長として日し、日中間の友好関係の構築について発言した<ref>[http://j.peopledaily.com.cn/zhuanti/Zhuanti_47.html 李鵬委員長訪日]</ref>。[[2003年]]に退任し、政界から引退した。
[[1998年]]3月に朱鎔基に総理の座を譲り、全表大会常務委員長に就任した。[[2002年]]4月に全表大会常務委員長として日本を訪問し、日中間の友好関係の構築について発言した<ref>[http://j.peopledaily.com.cn/zhuanti/Zhuanti_47.html 李鵬委員長訪日]</ref>。[[2003年]]に退任し、政界から引退した。


[[2008年]][[2月5日]]に脳梗塞を起こし、[[北京301医院]]搬送された。半年後の[[9月25日]]に高速鉄道「[[中国鉄路高速|和諧号]]」に乗車しているところを報じられ、健在が確認された。また、[[2009年]]3月に開かれた全人代にも出席した。
[[2008年]][[2月5日]]に脳梗塞を起こし、[[北京301医院]]搬送された。半年後の[[9月25日]]に高速鉄道「[[中国鉄路高速|和諧号]]」に乗車しているところを報じられ、健在が確認された。また、[[2009年]]3月に開かれた全人代にも出席した。
一方で2009年11月にカナダの明鏡網が、李鵬が重病との情報を伝えた<ref>[http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=1118&f=politics_1118_011.shtml]</ref>
一方で2009年11月にカナダの明鏡網が、李鵬が重病との情報を伝えた{{R|searchina_20091118}}


[[2010年]]6月に李鵬自身が第二次天安門事件勃発直前の動向についてまとめた手記が、香港にある新世紀出版社から出版されるとの報道があった。この手記は[[2004年]]に書き上げられたものの、党政治局によって発行禁止とされたために香港での出版となったが、直前になって版権を理由に出版が差し止められた。なお同書はアメリカで出版にこぎつけているが、香港版と内容が同一であるかについては確認が取れていない。
[[2010年]]6月に李鵬自身が第二次天安門事件勃発直前の動向についてまとめた手記が、香港にある新世紀出版社から出版されるとの報道があった。この手記は[[2004年]]に書き上げられたものの、党政治局によって発行禁止とされたために香港での出版となったが、直前になって版権を理由に出版が差し止められた。なお同書はアメリカで出版にこぎつけているが、香港版と内容が同一であるかについては確認が取れていない。


重病説も取り沙汰されたが、89歳の誕生日を2日後に控えた2017年10月18日の[[中国共産党第十九回全国代表大会]]開幕式に姿を見せた<ref>{{Cite news|url=http://www.sankei.com/world/news/171018/wor1710180050-n1.html|title=江沢民、胡錦濤氏ら長老の面々…衰え隠せず|work=産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2017-10-18|accessdate=2017-10-18}}</ref>。2019年7月22日午後11時11分、北京で90歳死去<ref>{{Cite news|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2019072301113&g=int|title=中国の李鵬元首相が死去=天安門事件で戒厳令布告、90歳|work=時事ドットコム|agency=[[時事通信社]]|date=2019-07-23|accessdate=2019-07-23}}{{リンク切れ|date=2020年12月}}</ref>。
重病説も取り沙汰されたが、89歳の誕生日を2日後に控えた2017年10月18日の[[中国共産党第十九回全国代表大会|中国共産党第19回全国代表大会]]開幕式に姿を見せた<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20171018-JM555GJEMNOMTJQR4FHOPBKRQU/|title=江沢民、胡錦濤氏ら長老の面々…衰え隠せず|work=産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2017-10-18|accessdate=2017-10-18}}</ref>。2019年7月22日23時11分(日本時間:[[7月23日]]0時11分病により90歳をもって死去した<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20190723133449/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019072301113&g=int|title=中国の李鵬元首相が死去=天安門事件で戒厳令布告、90歳|work=時事ドットコム|agency=[[時事通信社]]|date=2019-07-23|accessdate=2019-07-23}}{{リンク切れ|date=2020年12月}}</ref>。


== 子女 ==
== 子女 ==
長男の[[李小鵬 (中華人民共和国の政治家)|李小鵬]]は[[太子党]]の一員で、元[[山西省]]の省長、現在は[[中華人民共和国交通運輸部|交通運輸部]]の部長である。
長男の[[李小鵬 (中華人民共和国の政治家)|李小鵬]]は[[太子党]]の一員で、元[[山西省]]の省長、現在は[[中華人民共和国交通運輸部|交通運輸部]]の部長である。


娘の{{仮リンク|李小琳|zh|李小琳}}は{{仮リンク|中国電力国際発展有限公司|zh|中國電力國際發展}}会長を務めた人物で、「中国電力界の女王」の異名をとった。2016年に暴露された[[パナマ文書]]では、[[タックス・ヘイヴン]]の[[イギリス領ヴァージン諸島]]に会社を所有していたとされている<ref>{{Cite news
娘の{{仮リンク|李小琳|zh|李小琳}}は{{仮リンク|中国電力国際発展有限公司|zh|中國電力國際發展}}会長を務めた人物で、「中国電力界の女王」の異名をとった。2016年に暴露された[[パナマ文書]]では、[[タックス・ヘイヴン]]の[[イギリス領ヴァージン諸島]]に会社を所有していたとされている{{R|yomiuri_20160504}}。
| url=http://www.yomiuri.co.jp/world/20160504-OYT1T50042.html
| title=李鵬・元首相の娘、租税回避地に会社…香港紙
| work=YOMIURI ONLINE
| newspaper=[[読売新聞]]
| date=2016-05-04
| accessdate=2016-05-07
}}</ref>。


== 年譜 ==
== 年譜 ==
145行目: 142行目:


==「元宵」事件==
==「元宵」事件==
『[[人民日報]]』海外版[[1990年]][[3月20日]]号に[[アメリカ合衆国]]への中国人留学生の作として、以下の七言[[律詩]]が掲載された。
『[[人民日報]]』海外版[[1990年]][[3月20日]]号に[[アメリカ合衆国]]への中国人留学生の作として、以下の七言[[律詩]]が掲載された。


東風拂面催桃'''李'''<br />
東風拂面催桃'''李'''<br />
154行目: 151行目:
人'''民'''育我勝萬金<br />
人'''民'''育我勝萬金<br />
'''憤'''起直追振華夏<br />
'''憤'''起直追振華夏<br />
且待神洲遍地春<br />
且待神洲遍地春


そのまま読めば、春の訪れを待つ愛国的な留学生の気持ちを詠ったものである。しかし、右斜め上から下に「李鵬下台平民憤」(李鵬辞めれば民の憤りは収まる)という文が隠されていたため大騒ぎになった。「人民'''育'''我勝萬金」の列は、「人民'''有'''我勝萬金」と誤って紹介されることがある。
そのまま読めば、春の訪れを待つ愛国的な留学生の気持ちを詠ったものである。しかし、右斜め上から下に「李鵬下台平民憤」(李鵬辞めさせ民の憤りを抑える)という文が隠されていたため大騒ぎになった。「人民'''育'''我勝萬金」の列は、「人民'''有'''我勝萬金」と誤って紹介されることがある。


中文版[[:zh:%E6%9D%8E%E9%B9%8F%E4%B8%8B%E5%8F%B0%E5%B5%8C%E5%AD%97%E8%AF%97|李鹏下台嵌字诗]]も参照。
中文版[[:zh:李鹏下台嵌字诗|李鹏下台嵌字诗]]も参照。


==脚注==
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|refs=
<div class="references-small"><references /></div>
<ref name="xinhuanet_20190723">
{{Cite web
|title=李鹏同志逝世-新华网
|url=http://www.xinhuanet.com/politics/2019-07/23/c_1124789462.htm
|website=www.xinhuanet.com
|accessdate=2019-07-23
|date=2019-07-23
}}</ref>
<ref name="yomiuri_20160504">
{{Cite news
| url=https://web.archive.org/web/20160505215751/http://www.yomiuri.co.jp/world/20160504-OYT1T50042.html
| title=李鵬・元首相の娘、租税回避地に会社…香港紙
| work=YOMIURI ONLINE
| newspaper=[[読売新聞]]
| date=2016-05-04
| accessdate=2016-05-07
}}</ref>
<ref name="searchina_20091118">
{{Cite web|和書
|url=https://web.archive.org/web/20100402233206/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=1118&f=politics_1118_011.shtml
|title=中国・李鵬元首相に重病説―89年6月、天安門事件時に在任
|website=サーチナニュース
|date=2009-11-18
|accessdate=2021-06-24
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100402233206/http://news.searchina.ne.jp:80/disp.cgi?y=2009&d=1118&f=politics_1118_011.shtml
|archivedate=2010-04-02
|deadlinkdate=2016-03
}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
*{{Cite |和書
|author=天児慧
|authorlink=天児慧
|title=巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平
|series=中国の歴史
|volume=11
|publisher=講談社
|date=2004-11-10
|isbn=978-4062740616
|ref=harv
}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
181行目: 219行目:
|-
|-
! {{PRC}}
! {{PRC}}
{{先代次代|[[全国人民代表大会]]<br>常務委員長|1998年3月16日 - 2003年3月15日|[[喬石]]|[[呉邦国]]}}
{{先代次代|[[全国人民代表大会常務委員会#常務委員会委員長|全国人民代表大会常務委員長]]|第7代:1998年3月16日 - 2003年3月15日|[[喬石]]|[[呉邦国]]}}
{{先代次代|[[国務院総理]]|第4代:1988年4月9日 - 1998年3月17日|[[趙紫陽]]|[[朱鎔基]]}}
{{先代次代|[[国務院総理]]|第4代:1988年4月9日 - 1998年3月17日|[[趙紫陽]]|[[朱鎔基]]}}
{{先代次代|[[中華人民共和国教育部|国家教育委員会主任]]|1985年6月18日 - 1988年4月9日|[[何東昌]]|[[李鉄映]]}}
{{先代次代|[[中華人民共和国教育部|国家教育委員会主任]]|1985年6月18日 - 1988年4月9日|[[何東昌]]|[[李鉄映]]}}
187行目: 225行目:
|-
|-
|}
|}

{{Politician-stub}}

{{中華人民共和国国務院総理}}
{{中華人民共和国国務院総理}}

{{Normdaten}}
{{Normdaten}}
{{Politician-stub}}

{{Chinese-history-stub}}
{{DEFAULTSORT:り ほう}}
{{DEFAULTSORT:り ほう}}
[[Category:李鵬|*]]
[[Category:国務院総理]]
[[Category:国務院総理]]
[[Category:太子党]]
[[Category:太子党]]
[[Category:周恩来]]
[[Category:周恩来]]
[[Category:北京理工大学出身の人物]]
[[Category:六四天安門事件の人物]]
[[Category:六四天安門事件の人物]]
[[Category:中国共産党中央政治局常務委員]]
[[Category:中国共産党中央政治局常務委員]]
[[Category:中国の日記作家]]
[[Category:全国人民代表大会常務委員長]]
[[Category:上海出身の人物]]
[[Category:上海出身の人物]]
[[Category:20世紀中国の政治家]]
[[Category:21世紀中国の政治家]]
[[Category:1928年生]]
[[Category:1928年生]]
[[Category:2019年没]]
[[Category:2019年没]]
[[Category:全国人民代表大会常務委員長]]

2024年5月1日 (水) 09:15時点における最新版

李 鵬
李 鹏
李 鵬
Li Peng
ロシア連邦クレムリンにて(2000年9月13日)
生年月日 (1928-10-20) 1928年10月20日
出生地 中華民国の旗 中華民国 上海市
没年月日 (2019-07-22) 2019年7月22日(90歳没)
死没地 中華人民共和国の旗 中華人民共和国 北京市
出身校 延安自然化学院
張家口工業専門学校
北京工業学院
モスクワ動力学院
所属政党 中国共産党
配偶者 朱琳
子女 3人
親族 周恩来(養父)

在任期間 1998年3月16日 - 2003年3月15日
最高指導者 江沢民

内閣 李鵬内閣
在任期間 1987年11月24日 - 1988年4月9日(国務院総理代行)
1988年4月9日 - 1998年3月17日
最高指導者 鄧小平
江沢民

内閣 趙紫陽内閣
在任期間 1983年6月20日 - 1988年4月9日
最高指導者 鄧小平

内閣 趙紫陽内閣
在任期間 1985年6月18日 - 1988年4月9日
最高指導者 鄧小平

中華人民共和国の旗 中華人民共和国
第2代電力工業部長
内閣 趙紫陽内閣
在任期間 1981年3月 - 1982年3月
最高指導者 鄧小平
テンプレートを表示
李 鵬
各種表記
繁体字 李 鵬
簡体字 李 鹏
拼音 Lĭ Péng
和名表記: り ほう
発音転記: リー・ポン
テンプレートを表示
画像外部リンク
男性と戦車の接近場面を拡大した画像(ジェフ・ワイドナー撮影)

李 鵬(り ほう、原名:李 遠芃[1]、簡体字:李 鹏、繁体字:李 鵬、英語:Li Peng、リー・ポン、1928年10月20日 - 2019年7月22日[2])は、中華人民共和国政治家。第4代国務院総理、第7代全国人民代表大会常務委員長党中央政治局常務委員などを務めた。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

本貫四川省成都[1]。父は宜賓市慶府縣(今の高県)生まれ。[3]

1928年10月20日に上海市に誕生する。李鵬の父の李碩勛中国共産党初期の指導者であったが、国民党に処刑されたと言われる。初代国務院総理の周恩来鄧穎超夫妻は子供に恵まれなかったため孤児を引き取って養っており、李鵬もその1人であった。李鵬は建国の元老である養父母を後ろ盾としたため、太子党の先駆けともされる[4]

テクノクラート[編集]

1945年11月に中国共産党に入党する。1948年から1955年までソ連に留学し、モスクワ科学動力学院で水力エンジニアリングを学ぶ。帰国後にエンジニアとして東北電管局所属の豊満水利発電廠や阜新発電廠で発電作業に従事した。1966年からは華北電管局所属の北京供電局に異動し、1979年に電力部に移った。

1979年から1983年にかけて電力工業部副部長、電力工業部長、水利電力部副部長を歴任してテクノクラートとして活動した。1982年9月の第12回党大会で中央委員に選出された。

国務院総理へ[編集]

1983年6月に国務院副総理となる。1985年の第12期党中央委員会第5回全体会議(第12期5中全会)で政治局委員中央書記処書記に選出する。同年6月に国家教育委員会主任(大臣級)に就任した。

1987年11月の第13期1中全会党総書記に就任した趙紫陽の後任として国務院総理に指名され、政治局常務委員に選出される。1988年4月9日に正式に国務院総理に就任した。

経済政策は引き続き趙紫陽が主管していたが、鄧小平が推進した価格改革によってハイパーインフレが発生し、趙紫陽は経済政策の転換を迫られた。李鵬は趙紫陽に替わって経済政策の実権を握り、1988年9月末の第13期3中全会で党指導部は経済改革をトーン・ダウンし、「調整・引き締め」を行うことを決定した[5]。ただし、李鵬も総理就任の活動報告で、価格改革の必要性を訴えていた。

国内政策では一貫して強硬策を主張し[6]1989年5月20日に中国中央テレビで李鵬は戒厳令を公布し[7]、その後第二次天安門事件が起きた。趙紫陽が北朝鮮の訪問中に留守を託された李鵬ら保守派は鄧小平に事態を誇張して報告し、鄧小平は民主化学生運動を動乱と認定する。その意向は同年4月26日付『人民日報』社説である「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」に反映されていた。この社説に対する見解を巡って趙紫陽と決裂し、学生との対話でも小馬鹿にした態度に終始した。李鵬は「北京屠夫」(北京の虐殺者)・「六四屠夫」(天安門事件の虐殺者)と非難された[7]

天安門事件によって趙紫陽総書記と胡啓立政治局常務委員の失脚が確定的となった後、鄧小平たち八大元老は総書記の人選に入ったが、李鵬が候補として挙げられた形跡は無く、上海市党委員会書記で学生デモや『世界経済導報』停刊の対応を評価された江沢民(当時政治局委員)の後塵を拝することになった。学生運動の開始後ずっと前面に出ていたため、国内外に対する印象の悪さも考慮されたと思われる。天安門事件以降経済の自由化にも消極的な李鵬ら保守派の影響力が強まり、改革開放路線は停滞すると、政局安定のために保守派と妥協していた鄧小平もついに業を煮やし、1992年の旧正月に広東省深圳市などの経済特区を突如訪れ、改革開放路線の推進・加速を訴える談話を発表して回った(南巡講話)。これ以降改革派が勢いづき、李鵬ら保守派は影響力を失っていった。

政局及び政策の転換により1993年の任期をもって国務院総理を退任し、経済通の朱鎔基が後継者となるという見解が大勢を占めていたが、これに反して続投が決まった。総理候補として挙がったのが李鵬だけだった為事実上の信任投票となったが、反対票は曽慶紅2003年国家副主席に就任した。)と同率の12.5パーセント(反対210票)に達した。

1994年に国内の大反対を押し切って三峡ダムの着工を強行した。家族に電力会社の関係者が多く、批判を集めた。「汚職の温床」と化した本工事は総工費2000億元のうち34億元が賄賂汚職に消えたと言われ[8]、中でも李鵬はダム建設に使われる資材や設備の購入を通じて外国企業から巨額の賄賂を受けたとされる[9]。更に三峡ダムを管理・運営する中国長江三峡集団中国語版傘下にある長江電力中国語版香港証券取引所に上場した際には、息子の李小鵬や娘の李小琳中国語版の会社や妻の朱琳が経営する会社も同グループの株式を大量に購入し、巨額の利益を手にしたとされる[10]

日本について[編集]

1996年には日本について、オーストラリアのポール・キーティング首相が中国を訪問した時に、「日本は40年後には消えるかもしれない。」あるいは「30年もしたら日本は大体潰れるだろう。」といった内容の発言をしたとされている。

これについて笠原潤一参議院議員は「アメリカ人の方はどちらかというと日本人よりも中国人の方に親近感を感じているわけです、長い歴史の上から言っても。中国人社会がいかにアメリカの中に溶け込んでいるかというのは日本人社会以上ですから。そういう点から言えば、時々は米中はギスギスしますけれども、お互いの話というのは、コミュニケーションというのは非常にいいわけです、これはもう第二次世界大戦の例を見ても分かるように。ですから、その点では我々はそういう点をもう少し認識しないと、日米というよりも中米の方が本当を言えばタイトなんですよ、いろんなことから言って非常に関係が深い訳ですから。そういう点で、その点もしっかり把握しておかないと日米という問題は将来大変なことになるだろう。」とアメリカ・中国・日本の関係を話した上で、次のように報告している。

この前、ちょうどAPECを控えて、我が自民党で御承知のようにAPECの問題でアメリカとオーストラリアに行ってもらったんです。その時にオーストラリアのキーティング首相がこう言ったんです。中国の李鵬さんと会ったらどう言ったかと言いますと、日本とのいろんな話をしたら、いや日本という国は40年後には無くなってしまうかも分からぬと、そう言ったというんです。これは嘘じゃありません、これは他の先生みんな行って言っているんですから。それくらい軽視されている訳です、ある意味では。 — 参議院会議録情報 第134回国会 参議院 国際問題に関する調査会 第2号 平成7年11月8日より

国務院総理退任後[編集]

1998年3月に朱鎔基に総理の座を譲り、全国人民代表大会常務委員長に就任した。2002年4月に全国人民代表大会常務委員長として日本を訪問し、日中間の友好関係の構築について発言した[11]2003年に退任し、政界から引退した。

2008年2月5日に脳梗塞を起こし、北京301医院へ搬送された。半年後の9月25日に高速鉄道「和諧号」に乗車しているところを報じられ、健在が確認された。また、2009年3月に開かれた全人代にも出席した。 一方で2009年11月にカナダの明鏡網が、李鵬が重病との情報を伝えた[12]

2010年6月に李鵬自身が第二次天安門事件勃発直前の動向についてまとめた手記が、香港にある新世紀出版社から出版されるとの報道があった。この手記は2004年に書き上げられたものの、党政治局によって発行禁止とされたために香港での出版となったが、直前になって版権を理由に出版が差し止められた。なお同書はアメリカで出版にこぎつけているが、香港版と内容が同一であるかについては確認が取れていない。

重病説も取り沙汰されたが、89歳の誕生日を2日後に控えた2017年10月18日の中国共産党第19回全国代表大会開幕式に姿を見せた[13]。2019年7月22日23時11分(日本時間:7月23日0時11分)、病により90歳をもって死去した[14]

子女[編集]

長男の李小鵬太子党の一員で、元山西省の省長、現在は交通運輸部の部長である。

娘の李小琳中国語版中国電力国際発展有限公司中国語版会長を務めた人物で、「中国電力界の女王」の異名をとった。2016年に暴露されたパナマ文書では、タックス・ヘイヴンイギリス領ヴァージン諸島に会社を所有していたとされている[15]

年譜[編集]

「元宵」事件[編集]

人民日報』海外版1990年3月20日号にアメリカ合衆国への中国人留学生の作として、以下の七言律詩が掲載された。

東風拂面催桃
鷂鷹舒翅展
玉盤照海熱涙
遊子登思故國
休負生報國志
育我勝萬金
起直追振華夏
且待神洲遍地春

そのまま読めば、春の訪れを待つ愛国的な留学生の気持ちを詠ったものである。しかし、右斜め上から下に「李鵬下台平民憤」(李鵬を辞めさせ民の憤りを抑える)という文が隠されていたため大騒ぎになった。「人民我勝萬金」の列は、「人民我勝萬金」と誤って紹介されることがある。

中文版李鹏下台嵌字诗も参照。

脚注[編集]

  1. ^ a b 李鹏同志生平_滚动新闻_中国政府网”. www.gov.cn. 2022年7月17日閲覧。
  2. ^ 李鹏同志逝世-新华网”. www.xinhuanet.com (2019年7月23日). 2019年7月23日閲覧。
  3. ^ 宜宾党史重大事件纪实(55)李鹏同志两次视察宜宾”. 宜宾日报融媒体. 2021年6月23日閲覧。
  4. ^ “李鵬元首相死去 「太子党」はしり、世襲の根深さ象徴”. 日本経済新聞. (2019年7月23日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47704190T20C19A7FF8000/ 2019年10月11日閲覧。 
  5. ^ 天児慧 2004, p. 282.
  6. ^ [ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]
  7. ^ a b “中国の李鵬元首相、90歳で死去 「北京の虐殺者」と呼ばれ”. BBC. (2019年7月24日). https://www.bbc.com/japanese/49083679 2019年8月6日閲覧。 
  8. ^ 中国「三峡ダム」危機--最悪の場合、上海の都市機能が麻痺する | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
  9. ^ 恐怖の負の遺産・三峡ダムは最終的に爆破で取り壊さざる得ないのか?(北村 豊) | 現代ビジネス | 講談社(7/9)
  10. ^ 李鵬・元首相 三峡ダムに絡む家族ぐるみの巨額不正に捜査か|NEWSポストセブン
  11. ^ 李鵬委員長訪日
  12. ^ 中国・李鵬元首相に重病説―89年6月、天安門事件時に在任”. サーチナニュース (2009年11月18日). 2010年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月24日閲覧。
  13. ^ “江沢民、胡錦濤氏ら長老の面々…衰え隠せず”. 産経新聞. (2017年10月18日). https://www.sankei.com/article/20171018-JM555GJEMNOMTJQR4FHOPBKRQU/ 2017年10月18日閲覧。 
  14. ^ “中国の李鵬元首相が死去=天安門事件で戒厳令布告、90歳”. 時事ドットコム. 時事通信社. (2019年7月23日). https://web.archive.org/web/20190723133449/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019072301113&g=int 2019年7月23日閲覧。 [リンク切れ]
  15. ^ “李鵬・元首相の娘、租税回避地に会社…香港紙”. 読売新聞. (2016年5月4日). https://web.archive.org/web/20160505215751/http://www.yomiuri.co.jp/world/20160504-OYT1T50042.html 2016年5月7日閲覧。 

参考文献[編集]

  • 天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』 11巻、講談社〈中国の歴史〉、2004年11月10日。ISBN 978-4062740616 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

 中華人民共和国の旗 中華人民共和国
先代
喬石
全国人民代表大会常務委員長
第7代:1998年3月16日 - 2003年3月15日
次代
呉邦国
先代
趙紫陽
国務院総理
第4代:1988年4月9日 - 1998年3月17日
次代
朱鎔基
先代
何東昌
国家教育委員会主任
1985年6月18日 - 1988年4月9日
次代
李鉄映
先代
劉瀾波
電力工業部長
1981年3月 - 1982年3月
次代
水利電力部に再編