コンテンツにスキップ

「崇禎」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Kunipoo (会話 | 投稿記録)
関連項目を追加。
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
 
(23人の利用者による、間の32版が非表示)
1行目: 1行目:
'''崇禎'''('''すうてい''')は[[中国]]、[[明]]代の最後の[[元号一覧 (中国)|元号]]([[1628年]] - [[1644年]])。[[崇禎帝|毅宗]]の在世に使われ、これから毅宗は'''崇禎帝'''と呼ばれる。




'''崇禎'''(すうてい)は、[[中国]]、[[明]]の最後の皇帝である第17代皇帝[[崇禎帝|朱由検]]の治世中で使用された[[元号一覧 (中国)|元号]]。[[1628年]] - [[1644年]]。


明では[[一世一元の制]]を採用していたため、毅宗は'''崇禎帝'''と称される。


崇禎以外で提示された元号の案に「'''乾聖'''」、「'''興福'''」、「'''咸嘉'''」があり、初期の案では崇禎ではなく「崇貞」であった。また、元号の案に別説として「'''永昌'''」、「'''紹慶'''」、「'''咸寧'''」があったという説があり、後に崇禎17年に李自成によって明が滅ぼされて建国された[[順 (王朝)|順]]の元号に[[永昌 (李自成)|永昌]]が用いられている。
==西暦との対照表==
[[ファイル:万国人物图卷轴中的大明人.jpg|サムネイル|崇禎の明の衣装]]
<dl><dd>
{{ウィキプロジェクトリンク|紀年法}}
<table border=1 cellpadding=0 cellspacing=0>
<tr style="font-weight:bold;background-color:#CCCCCC;color:#000000;text-align:right"><td>&nbsp;崇禎&nbsp;&nbsp;</td><td>元年</td><td>2年</td><td>3年</td><td>4年</td><td>5年</td><td>6年</td><td>7年</td><td>8年</td><td>9年</td><td>10年</td></tr>
<tr style="background-color:#FFFFFF;"><td>&nbsp;西暦&nbsp;&nbsp;</td><td>[[1628年]]</td><td>[[1629年]]</td><td>[[1630年]]</td><td>[[1631年]]</td><td>[[1632年]]</td><td>[[1633年]]</td><td>[[1634年]]</td><td>[[1635年]]</td><td>[[1636年]]</td><td>[[1637年]]</td></tr>
</table>


==出来事==
<table border=1 cellpadding=0 cellspacing=0>
崇禎元年、1627年([[天啓 (明)|天啓]]7年)に[[天啓帝|熹宗]]が死亡したため、弟崇禎帝が皇位についた。
<tr style="font-weight:bold;background-color:#CCCCCC;color:#000000;text-align:right;"><td>&nbsp;崇禎&nbsp;&nbsp;</td><td>11年</td><td>12年</td><td>13年</td><td>14年</td><td>15年</td><td>16年</td><td>17年</td></tr>
<tr style="background-color:#FFFFFF;"><td>&nbsp;西暦&nbsp;&nbsp;</td><td>[[1638年]]</td><td>[[1639年]]</td><td>[[1640年]]</td><td>[[1641年]]</td><td>[[1642年]]</td><td>[[1643年]]</td><td>[[1644年]]</td></tr>
</table>


崇禎17年3月19日、[[李自成]]により明は滅亡。李自成は、その年の1月に[[西安]]で皇帝を称し([[順 (王朝)|順]])、年号を[[永昌 (李自成)|永昌]]としていたが、4月に[[清]]によって逐われた。その清の元号では、この年は[[順治]]元年である。
</dd></dl>


一方、[[南京市|南京]]では、崇禎帝の従兄弟である[[弘光帝|福王・朱由崧]]が5月15日に皇帝に即位し、明朝を復興([[南明]])、踰年改元法に則り、崇禎の年号を継承し、翌年正月を以って[[弘光]]に改元する。
== 関連項目 ==


李氏朝鮮では、明の滅亡後、明の後継者は朝鮮だとする[[小中華思想]]により、崇禎による[[崇禎紀元]]を使い続けていた。
*[[天聡]](崇禎元年は[[後金]]の天聡二年)
*[[崇徳]](崇禎9年は[[清]]の崇徳元年)
*[[順治]](崇禎17年は清の順治元年)


==西暦との対照表==
<table border = 1 align = center>
{| class="wikitable" style="background-color:#ffffff;text-align:center"
<tr>
|- style="background-color:#cccccc;font-weight:bold"
<td width = 30% align = center>
|崇禎||元年||2年||3年||4年||5年||6年||7年||8年||9年||10年
前の年号:<br>[[天啓 (明)|天啓]]
|-
<td width = 40% align = center>
|[[西暦]]||[[1628年]]||[[1629年]]||[[1630年]]||[[1631年]]||[[1632年]]||[[1633年]]||[[1634年]]||[[1635年]]||[[1636年]]||[[1637年]]
[[明]]
|-
<td width = 30% align = center>
|[[干支]]||[[戊辰]]||[[己巳]]||[[庚午]]||[[辛未]]||[[壬申]]||[[癸酉]]||[[甲戌]]||[[乙亥]]||[[丙子]]||[[丁丑]]
|- style="background-color:#cccccc;font-weight:bold"
|崇禎||11年||12年||13年||14年||15年||16年||17年
| colspan="3" rowspan="3" style="background-color:#ffffff"|&nbsp;
|-
|[[西暦]]||[[1638年]]||[[1639年]]||[[1640年]]||[[1641年]]||[[1642年]]||[[1643年]]||[[1644年]]
|-
|[[干支]]||[[戊寅]]||[[己卯]]||[[庚辰]]||[[辛巳]]||[[壬午]]||[[癸未]]||[[甲申]]
|}


==他年号との対照表==
</table>
{| class="wikitable" style="background-color:#ffffff;text-align:center"
|- style="background-color:#cccccc;font-weight:bold"
|崇禎||元年||2年||3年||4年||5年||6年||7年||8年||9年||10年
|-
|[[後金]]<br />[[清]]||[[天聡]]2||天聡3||天聡4||天聡5||天聡6||天聡7||天聡8||天聡9||天聡10<br />[[崇徳]]元||崇徳2
|- style="background-color:#cccccc;font-weight:bold"
|崇禎||11年||12年||13年||14年||15年||16年||17年
| colspan="3" rowspan="3" style="background-color:#ffffff"|&nbsp;
|-
|[[清]]||崇徳3||崇徳4||崇徳5||崇徳6||崇徳7||崇徳8||[[順治]]元
|-
|[[李自成|順]]||-||-||-||-||-||-||[[永昌 (李自成)|永昌]]元
|}

== 関連項目 ==
*[[元号一覧 (中国)]]




[[Category:中国の元号|すうてい]]
{{中国の元号|[[明]]|[[天啓 (明)|天啓]]|([[弘光]])|すうてい}}
{{明の元号}}
[[zh:崇祯]]
[[Category:明の元号]]

2023年6月1日 (木) 08:35時点における最新版


崇禎(すうてい)は、中国の最後の皇帝である第17代皇帝朱由検の治世中で使用された元号1628年 - 1644年

明では一世一元の制を採用していたため、毅宗は崇禎帝と称される。

崇禎以外で提示された元号の案に「乾聖」、「興福」、「咸嘉」があり、初期の案では崇禎ではなく「崇貞」であった。また、元号の案に別説として「永昌」、「紹慶」、「咸寧」があったという説があり、後に崇禎17年に李自成によって明が滅ぼされて建国されたの元号に永昌が用いられている。

崇禎の明の衣装

出来事[編集]

崇禎元年、1627年(天啓7年)に熹宗が死亡したため、弟崇禎帝が皇位についた。

崇禎17年3月19日、李自成により明は滅亡。李自成は、その年の1月に西安で皇帝を称し()、年号を永昌としていたが、4月にによって逐われた。その清の元号では、この年は順治元年である。

一方、南京では、崇禎帝の従兄弟である福王・朱由崧が5月15日に皇帝に即位し、明朝を復興(南明)、踰年改元法に則り、崇禎の年号を継承し、翌年正月を以って弘光に改元する。

李氏朝鮮では、明の滅亡後、明の後継者は朝鮮だとする小中華思想により、崇禎による崇禎紀元を使い続けていた。

西暦との対照表[編集]

崇禎 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年 8年 9年 10年
西暦 1628年 1629年 1630年 1631年 1632年 1633年 1634年 1635年 1636年 1637年
干支 戊辰 己巳 庚午 辛未 壬申 癸酉 甲戌 乙亥 丙子 丁丑
崇禎 11年 12年 13年 14年 15年 16年 17年  
西暦 1638年 1639年 1640年 1641年 1642年 1643年 1644年
干支 戊寅 己卯 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申

他年号との対照表[編集]

崇禎 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年 8年 9年 10年
後金
天聡2 天聡3 天聡4 天聡5 天聡6 天聡7 天聡8 天聡9 天聡10
崇徳
崇徳2
崇禎 11年 12年 13年 14年 15年 16年 17年  
崇徳3 崇徳4 崇徳5 崇徳6 崇徳7 崇徳8 順治
- - - - - - 永昌

関連項目[編集]


前の元号
天啓
中国の元号
次の元号
弘光