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この地には[[石器時代]]から人が住んでいたが、[[8世紀]]から[[9世紀]]に形成された[[スラヴ人]]の[[城塞]]集落が都市としてのポズナンの起源とされる。10世紀に入るとここを拠点とするポラン族([[レヒト諸語|レフ族]]、現ポーランド人)の勢力が周辺に拡大しポズナンはその中心都市となった。[[966年]]、郊外のグニェズノにポーランドで最初のカトリック司教座がおかれ、ポズナンは[[ポーランド王国]](966年当時はポーランド公国で、ポーランドが王国になったのは[[1025年]])の最初の[[首都]]となった。[[異教]]時代のポズナンの[[神殿]]は取り壊されてポズナン大聖堂が建てられた。[[モンゴルのポーランド侵攻]]後、[[東方植民]]と[[十字軍]]運動によりドイツ人などが多く招かれて入植、都市開発も手がけた。
この地には[[石器時代]]から人が住んでいたが、[[8世紀]]から[[9世紀]]に形成された[[スラヴ人]]の[[城塞]]集落が都市としてのポズナンの起源とされる。10世紀に入るとここを拠点とするポラン族([[レヒト諸語|レフ族]]、現ポーランド人)の勢力が周辺に拡大しポズナンはその中心都市となった。[[966年]]、郊外のグニェズノにポーランドで最初のカトリック司教座がおかれ、ポズナンは[[ポーランド王国]](966年当時はポーランド公国で、ポーランドが王国になったのは[[1025年]])の最初の[[首都]]となった。[[異教]]時代のポズナンの[[神殿]]は取り壊されてポズナン大聖堂が建てられた。[[モンゴルのポーランド侵攻]]後、[[東方植民]]と[[十字軍]]運動によりドイツ人などが多く招かれて入植、都市開発も手がけた。


ポズナンは昔からの交通の要所であり、[[ドイツ騎士団]]の[[ハンザ同盟]]加盟都市として繁栄した。17世紀の[[三十年戦争]]、18世紀の[[北方戦争]]に巻き込まれ、一時街は荒廃した。18世紀後半、第2次[[ポーランド分割]]によって[[プロイセン王国]]に併合された。19世紀初頭、[[ナポレオン・ボナパルト]]によって[[ワルシャワ公国]]が建てられるとその領土に含まれるが、[[ウィーン体制]]下で[[ポズナン大公国]]として再びプロイセンの支配下におかれた。[[第一次世界大戦]]後、ポーランドの独立にともなってポーランド領となった。[[第二次世界大戦]]では[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]と[[赤軍|ソ連軍]]の激しい戦闘によりポズナン市街地全体の55%が破壊された。特に旧市街はその90%以上が破壊されたが、戦後、残された資料を元にポーランド人の手によって完全に復元された。[[スターリン批判]]直後の1956年6月には[[ポズナン暴動|反ソ連暴動]]が発生した。[[東欧革命]]によりポーランドが民主化した直後の[[1990年]]には市議会の完全[[自由選挙]]が行われた。[[1999年]]には[[地方政府|地方自治体]]の再編が行われ、ポズナンは[[ヴィエルコポルスカ県]](大ポーランド県)の[[県都]]およびポズナン郡の郡都となった。交通の要所にある商業都市で、博覧会が頻繁に催され、[[鉄道]]や[[高速道路]]といった道路交通網のアップグレードが急ピッチで進んでいる。[[2012年]]には[[サッカー]]の欧州選手権大会(ユーロ2012)の会場の一つとなる。[[夏至]]の夜に数千のランタン([[天灯]]、[[スカイランタン]])を天空に飛ばす宗教的な祭り「聖ヨハネ祭」で有名<ref>[http://www.jiji.com/jc/p_archives?rel=j7&id=20110623092328-1011994 時事ドットコムの記事より]</ref>。
ポズナンは昔からの交通の要所であり、[[ドイツ騎士団]]の[[ハンザ同盟]]加盟都市として繁栄した。17世紀の[[三十年戦争]]、18世紀の[[北方戦争]]に巻き込まれ、一時街は荒廃した。18世紀後半、第2次[[ポーランド分割]]によって[[プロイセン王国]]に併合された。19世紀初頭、[[ナポレオン・ボナパルト]]によって[[ワルシャワ公国]]が建てられるとその領土に含まれるが、[[ウィーン体制]]下で[[ポズナン大公国]]として再びプロイセンの支配下におかれた。[[第一次世界大戦]]後、ポーランドの独立にともなってポーランド領となった。[[第二次世界大戦]]では[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]と[[赤軍|ソ連軍]]の激しい戦闘によりポズナン市街地全体の55%が破壊された。特に旧市街中心部はその90%以上が破壊されたが、戦後、残された資料を元にポーランド人の手によって完全に復元された。[[スターリン批判]]直後の1956年6月には[[ポズナン暴動|反ソ連暴動]]が発生した。[[東欧革命]]によりポーランドが民主化した直後の[[1990年]]には市議会の完全[[自由選挙]]が行われた。[[1999年]]には[[地方政府|地方自治体]]の再編が行われ、ポズナンは[[ヴィエルコポルスカ県]](大ポーランド県)の[[県都]]およびポズナン郡の郡都となった。交通の要所にある商業都市で、博覧会が頻繁に催され、[[鉄道]]や[[高速道路]]といった道路交通網のアップグレードが急ピッチで進んでいる。[[2012年]]には[[サッカー]]の欧州選手権大会(ユーロ2012)の会場の一つとなる。[[夏至]]の夜に数千のランタン([[天灯]]、[[スカイランタン]])を天空に飛ばす宗教的な祭り「聖ヨハネ祭」で有名<ref>[http://www.jiji.com/jc/p_archives?rel=j7&id=20110623092328-1011994 時事ドットコムの記事より]</ref>。

== 交通 ==
* [[ポズナン市電]]


== 教育 ==
== 教育 ==

2023年7月13日 (木) 03:52時点における最新版

ポズナン

Poznań
ポズナン
ポズナン
ポズナンの旗
ポズナンの紋章
紋章
ポズナンの位置(ポーランド内)
ポズナン
ポズナン
ポズナンの位置(ヴィエルコポルスカ県内)
ポズナン
ポズナン
ポズナンの位置(ポズナン中心部内)
ポズナン
ポズナン
北緯52度24分24秒 東経16度55分25秒 / 北緯52.40667度 東経16.92361度 / 52.40667; 16.92361
ポーランドの旗 ポーランド
ヴィエルコポルスカ県
政府
 • 市長 Jacek Jaśkowiak
面積
 • 都市 261.85 km2
最高標高
154 m
最低標高
60 m
人口
(2021年)(5th)[1]
 • 都市 529,410人
 • 密度 2,040人/km2
 • 都市部
1,100,000人
 • 都市圏
1,400,000人
郵便番号
60-001 - 61-890
市外局番 (+48) 61
ナンバープレート PO
ウェブサイト www.poznan.pl
地図

ポズナンまたはポズナニ(Poznań・Pl-Poznań.ogg [ˈpɔznaɲ][ヘルプ/ファイル])は、ポーランド西部に位置する、ポーランド最古の都市の一つで、中世ポーランド王国の最初の首都である。ラテン語名はポスナニア(Posnania)、ドイツ語名はポーゼン(Posen)、イディッシュ語名は פויזן (Poyzn)。ヴィエルコポルスカ県の県都である。人口は約53万人で、これはポーランド5番目の規模である。ポーランド分割後、プロイセン王国に管理され、1871年にはドイツ統一となりドイツ帝国となった。

名称[編集]

ポーランド語の「知る(znać)」(この単語は古い時代から変わっていない)の分詞「poznan(y)」からで、意味は「知られている(人、場所、もの)」。したがって、「ポズナニ」の意味は「有名な人の(持つ)街」ないし「有名な街」。

地勢・産業[編集]

ヴァルタ川に臨む河港市で、歴史的重要な中心地でもある。古くから商業都市として栄えてきており、文化、学術、商工業の中心地としても知られる。毎年6月上旬に行われる国際見本市の開催地でもある。約150キロ南にヴロツワフ、200キロ東にウッチ、250キロ西にドイツのベルリンが位置している。

歴史[編集]

ポズナン旧市街

この地には石器時代から人が住んでいたが、8世紀から9世紀に形成されたスラヴ人城塞集落が都市としてのポズナンの起源とされる。10世紀に入るとここを拠点とするポラン族(レフ族、現ポーランド人)の勢力が周辺に拡大しポズナンはその中心都市となった。966年、郊外のグニェズノにポーランドで最初のカトリック司教座がおかれ、ポズナンはポーランド王国(966年当時はポーランド公国で、ポーランドが王国になったのは1025年)の最初の首都となった。異教時代のポズナンの神殿は取り壊されてポズナン大聖堂が建てられた。モンゴルのポーランド侵攻後、東方植民十字軍運動によりドイツ人などが多く招かれて入植、都市開発も手がけた。

ポズナンは昔からの交通の要所であり、ドイツ騎士団ハンザ同盟加盟都市として繁栄した。17世紀の三十年戦争、18世紀の北方戦争に巻き込まれ、一時街は荒廃した。18世紀後半、第2次ポーランド分割によってプロイセン王国に併合された。19世紀初頭、ナポレオン・ボナパルトによってワルシャワ公国が建てられるとその領土に含まれるが、ウィーン体制下でポズナン大公国として再びプロイセンの支配下におかれた。第一次世界大戦後、ポーランドの独立にともなってポーランド領となった。第二次世界大戦ではドイツ軍ソ連軍の激しい戦闘によりポズナン市街地全体の55%が破壊された。特に旧市街中心部はその90%以上が破壊されたが、戦後、残された資料を元にポーランド人の手によって完全に復元された。スターリン批判直後の1956年6月には反ソ連暴動が発生した。東欧革命によりポーランドが民主化した直後の1990年には市議会の完全自由選挙が行われた。1999年には地方自治体の再編が行われ、ポズナンはヴィエルコポルスカ県(大ポーランド県)の県都およびポズナン郡の郡都となった。交通の要所にある商業都市で、博覧会が頻繁に催され、鉄道高速道路といった道路交通網のアップグレードが急ピッチで進んでいる。2012年にはサッカーの欧州選手権大会(ユーロ2012)の会場の一つとなる。夏至の夜に数千のランタン(天灯スカイランタン)を天空に飛ばす宗教的な祭り「聖ヨハネ祭」で有名[2]

交通[編集]

教育[編集]

市内にある高等教育機関

ギャラリー[編集]

著名な出身者[編集]

ゆかりのある人物

ポーゼン管区の出身者

姉妹都市[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Local Data Bank”. Statistics Poland. 2022年7月10日閲覧。 Data for territorial unit 3064000.
  2. ^ 時事ドットコムの記事より

外部リンク、関連項目[編集]

インターネット・ディレクトリー[編集]

ガイド[編集]

経済[編集]

科学と教育活動[編集]

地理[編集]

文化・歴史[編集]

スポーツ[編集]

写真[編集]